人気アニメ主題歌を手がけた音楽家が法曹界へ…子どもの人権問題に取り組む田畑智砂弁護士

児童虐待の件数は年々増加しており、2019年には全国で起きた児童虐待事件が1972件で、過去最多となった。亡くなる子どもは毎年、50人を超える。

そうした中で、子どもの人権問題に取り組む田畑智砂弁護士は、現場で虐待された児童の保護や支援にあたるほか、東京弁護士会が主催する児童虐待をテーマにした劇「もがれた翼」で音楽を担当するなど、活躍している。

そんな田畑弁護士には、二つの「顔」がある。


一つは、子どもたちを助けるために奔走する法律家、もう一つは、90年代から00年代にかけて誰もが一度は聞いたことのある楽曲を生み出してきたミュージシャンだ。

田畑弁護士は上智大学法学部を卒業後、音楽業界へ。J-POPやアニメの主題歌などのヒットを手がけながら、結婚して3人の子どもにも恵まれた。

しかし、30代半ばを過ぎ、人生の「次のステージ」を見据えたときに浮かんだのが、学生のころからの夢である弁護士だった。

音楽家と法律家という波乱万丈な半生には、どのような決断があったのだろうか。(弁護士ドットコムニュース編集部 ・猪谷千香)

●音楽好きだった大学生がバブル時代の音楽業界へ

人気声優の林原めぐみさんや桑島法子さんが歌うアニメ「スレイヤーズ」や、「ギャラクシーエンジェル」の主題歌、中森明菜さん、広末涼子さん、内田有紀さんが歌うJ-POP、ドラマの挿入歌…。

音楽家、田辺智沙さんが作詞や作曲を手がけた楽曲はJASRACに登録されているものだけでも、延べ300曲以上になる。この田辺智沙さんこそ、田畑弁護士、その人だ。

田畑弁護士は20代から30代にかけて、音楽家として活躍していた。子どものときから、音楽が大好きだった。幼いころからピアノを弾き、ほかにもさまざまな楽器に手を出した。都内の私立高校から上智大学法学部に進学。頭の片隅には弁護士になる夢もあったというが…。

「でも法学部学生時代、法律はほとんどわかりませんでした(笑)。そのときなりには理解していたとは思うのですけど、音楽のほうばっかりで…」と振り返る。

「大学生のときから、バイトでちょっと曲を書いたり歌ったりしていました。時代はバブル真っ盛りで、とにかくイケイケドンドン。どの業界も売り手市場で、音楽業界も今みたいにシュリンクしていなくて、出せばそれなりの売れ方をしていました。ですから、ひよっこの学生だった私にも音楽の仕事がそれなりにきていたんです」

大学卒業後は、そのまま音楽業界へ。楽曲の著作権管理をする音楽出版社と契約した。

「その音楽出版社は某テレビ局の100パーセント子会社で、テレビ局で放送するドラマやアニメの主題歌などの提供や著作権管理をしていました。当時はその会社の中に、音楽作家ばかり集めている事務所があって、そこに所属していました」

●法律家になりたいという夢

「あの当時のミュージシャン仲間に時々会いますけど、今弁護士やっているというと、驚かれますよね。『何で?』って」と笑う田畑弁護士。

なぜ法曹界を目指そうと思ったのだろうか。転機は大学を卒業してから20年近くたったころに訪れた。

「私が大学で法学部に入ったのは、やはり法律家になりたいと思っていたからなのですが、もう一つの夢に音楽の仕事がありました。大学生のときには音楽のほうに勢いよく川が流れていて、そちらに進みました。

でも、私が手がけていたJ-POPは、若い人たち向けの音楽で、自分が30代半ばを過ぎて、疑問を持つようになっていました。自分より若い世代の中から、すごく優れた才能を持った人たちもポンポン現れてくる。それに対して、自分はこのまま60歳になるまでこの仕事を続けて行くのか、行けるのか。自信がなくなっていました」

一方で、働く母として3人の子どもを育てる中、日々流れてくる児童虐待のニュースにも心を痛め、社会に対する理不尽や問題を感じるようにもなっていた。なぜ、子どもたちが笑顔でいられないのか。

「特に子どもを自分が産んでから、子どもたちの直面している問題がとても身近になりました。

子どもたち自身が主体的に意見を言う場はなかなか与えられず、親の属物みたいに扱われています。彼らの権利を守り、彼ら自身の意見を代弁してあげられる形として、法律家になって子どもの人権問題に取り組みたいという気持ちがむくむくと起こってきました」

●ロースクールと子育てを両立

一度決断したら、行動に迷いがない。2008年に慶應義塾大学法科大学院に入学。2010年には司法試験に合格した。

「ロースクールに行っているとき、まだ下の子は2歳とか3歳でした。ほかの同級生たちは、夜まで自習室で勉強していましたが、私はだいたい授業終わったら、サッと帰ってましたね(笑)。時間が限られている分、かえって目的意識が持てました。ロースクールは、若い同級生たちに囲まれて、第2の青春みたいで楽しかったです」

その後、2012年に都内の弁護士事務所でキャリアをスタートさせた。

「アットホームな事務所でした。いろいろな仕事をさせていただきました。たとえば、別荘管理地の訴訟や、企業法務で契約書のチェックとか…。相続や離婚などのいわゆる王道の家事事件もやっていましたし、刑事事件もやりましたね」

海外の法律事務所も経験した。2014年から2年間、タイのバンコクにある法律事務所に赴任したのだ。

「たまたまボス弁の先生がタイの法律事務所のM&Aコンサルタントと知り合いでした。『日本人の弁護士がほしいというんだけど、誰か行かない?』と言われたので、面白そうだというただの好奇心から手を挙げました(笑)」

タイには日本人の駐在が多いため、日本人が関係するトラブルも少なくない。裁判や法律相談などで、日本人の弁護士が求められていたのだ。

「私はタイの弁護士資格がありませんから、コンサルタントとして行きました。日本人の駐在員はやはり、日本人の弁護士に日本語で話を聞いてもらったほうが、なんとなく安心されるようで、タイ人の弁護士と一緒に組んで、裁判の陳述書を作るお手伝いをしたりしていました」

●裁判官が遅刻しても当たり前なタイの法廷

タイの法律は、近代に整備される中、日本の法律が参考とされたため、よく似通っているという。

「特に民法は、コピーと言っていいくらい似ていました。私はタイの法律をあまり知らないまま現地に行きましたが、考え方の基本は同じなので、すぐに理解できました。

日本との違いは……裁判官が法廷に平気で遅れてくるとかですね。日本だったら絶対にありえないですね。働いていた法律事務所でも、『会議の時間だから行こう』とタイ人のアシスタントに声をかけると、『日本人は行きなよ。俺らはタイ人だからまだ行かないから』って(笑)。

冗談で言ってるのですが、本当におおらかで、ミーティングが時間通りに始まったためしがなかったですね」

実はこのとき、夫は日本に残し、子ども3人を連れての赴任だったという。

「子どもたちは小学生でしたが、順応性がありましたね。あるとき、子どもが知らない言語で話してるんですよ。何語?って聞いたら、インドの子どもとプールで一緒に遊んだらしく、真似してたんです。面白いなって思いました」

タイの法律事務所で同僚と(写真:本人提供)

●子どもの人権を守るために独立

タイから帰国後、まもなく現在のマザーバード法律事務所を立ち上げた。

「タイに行って、自分のやりたいことがより明確に見えてきたということはありますね。もともと、子どもの人権問題をやりたくて法律家になったわけですが、タイの事務所は企業法務中心だったこともあり、タイにいたらできませんでした。

だったら、日本で自分のライフワークを極めるために、独立しようという気持ちが高まりました」

以後、虐待された子どもたちを救うため、奔走している。その一つが、子どもシェルターでの仕事だ。

「今も、親御さんから虐待を受けて、逃げ出してきた子どもを受け入れるシェルターで子どもの担当弁護士をやっています。

今日、寝るところがない、帰るところがないという子をシェルターで保護します。もう身も心もボロボロになっている子どもたちが、自分たちの道を探して自立していくまで、子どもの担当弁護士として見守ってサポートする仕事です。弁護士としては、親御さんと交渉したり、何か法的な問題があったら対応します。

もちろん、すべての子どもが順調に自立するとは言えないのですが、それでも自分が寄り添い、一生懸命に頑張った子が成人式を迎えたときには、すごくうれしかったですね」

●服で見えない内ももをつねられていた女の子

その子は、16、17歳のときに保護された女の子だった。

「出会ったころは、足がボロボロだったんです。親御さんは、子どもを叩いたらだめだと言われているから、体罰を与える際も、見える場所ではなく、服で隠れるような内ももをつねってたんですね。

すごくお子さんに執着していた親御さんで、保護した直後は私のところに毎日のように電話をかけてきて、『誘拐だ』とおっしゃってました。でも、その子はとても強い意思を持って『私は自立したい』と言っていたのです」

女の子はシェルターで保護されたあと、義務教育を終えた子どもたちが働きながら自立を目指す「自立援助ホーム」に入った。アルバイトをしてお金を貯め、20歳になったときにアパートを借りて自立したという。

「その子の成人式に呼ばれたのですが、きれいな着物を着て、とても感動的でした。そういう仕事はすごくやりがいがあるし、一人一人覚えていますね。ほかの裁判の仕事より、全然覚えてますね(笑)」

●児童福祉法から外れてしまう子どもたち

子どもの支援をする現場で、思うことがある。

「親子関係は、子どもが最初に経験する人間関係なんです。虐待されて育った子は、そもそも人を信頼する、安心できる存在を知らないので、上手く人間関係を構築できないまま育ってしまいます。

そういう子ども達は、そのまま社会に出ても、壁にぶち当たることが多いんです。もちろん、私たちにできることなんて微々たるものなのですが、その中でも、何とかできることをサポートしていきたいです」

そのためには、何が必要なのだろうか。

「今、若者への支援が宙に浮いちゃって、足りていない状況です。

児童福祉法は基本的に18歳未満までしか対象にしてくれません。だから、18歳、19歳の子が虐待されても、なかなか児童福祉法では守りきれません。

でも、それくらいの子がいきなり世間に放り出されても、どう生きていけばよいのかわからない。先ほど申し上げたように、虐待を受けた子は人との信頼関係を築くのが難しいケースが多いです。

そんな彼・彼女たちを支援するシステムが今、圧倒的に足りないと思っています。そういう子たちを今、法律で救えるようにしていきたいです」

●「親権」ではなく「親責任」に

マザーバード法律事務所のサイトには、「親権」について書かれた田畑弁護士のコラムが寄せられている。

「虐待されて命からがら逃げてきた子どもたち。保護したことを親に伝えると、『親権者なのだから権利がある。子に逢わせろ』と言われることがある。

子が虐待をうったえていても、自分の行った行為が『虐待』だと認め、自覚反省している親は少なく、大抵は『しつけ』だとか、『親の権利』などとおっしゃいます。

この『親権』と言う言葉、そのまま読むと『親の権利』が主眼であるかのように思われがちですが、そうではないのです。確かに、日本では、父親が家長として権力的に子を支配し、子がそれに服従すると言う考え方がされていた時代があります。

しかし、家父長制が終了し新しい家族法が制定された現代では、『親権』は『権利』としての側面より、むしろ子の利益を守る親の『義務』としての側面が強調されているのです。1989年に国連で採択された『子どもの権利条約』でも、子自身に成長発達する権利があることが認められており、親は子を保護養育する『義務』を負うことが規定されています。」

田畑弁護士によると、イギリスでは「監護権」から「親責任」という言葉に、ドイツでも「親の権力」から「親の配慮」という言葉にそれぞれ変更されているという。

そこで、田畑弁護士は「私も、子どもの成長発達権を第一に考え、そろそろ日本でも『親権』から『親責任』などの言葉に変更すべきではないかと思います」と話す。

「子どもの弁護士って、儲らないけどとても大事だと思っています。子どもの意思をちゃんと代弁できる、その成長や自立をサポートできる弁護士になりたいです」

【編集部注】東京弁護士会では現在、子どもたちと弁護士が作る劇「もがれた翼」の動画を無料で公開しています(いずれも2020年12月31日まで)。

・もがれた翼 特別編「ZOOM IN 子どもシェルター」https://www.toben.or.jp/know/iinkai/children/news/zoom_in.html

・もがれた翼 part25「パッチワーク」、part26「素数とくるみ」 https://www.toben.or.jp/know/iinkai/children/news/part25part2683930.html

【田畑智砂弁護士略歴】 上智大学法学部法律学科卒業後、1990年より作詞・作曲家として活動(株式会社日音所属、JASRAC正会員)。2008年、慶應義塾大学大学院法務研究科入学。2010年に慶應義塾大学大学院卒業後、2010年、司法試験合格。2012年より弁護士法人パートナーズ法律事務所で勤務、2014年から2016年にかけては特技である英語を活かし、タイ・バンコクのサイアムシティ法律事務所で働く。2018年に独立し、マザーバード法律事務所を設立。東京弁護士会子どもの人権と少年法に関する特別委員会委員、児童相談所非常勤弁護士、豊島区及び練馬区非常勤弁護士(児童相談)なども務めるほか、子どもの人権について啓蒙活動も多数行なっている。プライベートでは、子ども3人の母でもある。

引用元:BIGLOBEニュース

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